一般ノート
堀井雄二さんのAIゲームと、AIアレルギーについて
堀井雄二さんがAIで作ったゲームへの反応をきっかけに、AIを使うことへの拒否感と、これからの創作について考えました。
堀井雄二さんが生成AIを使って短編推理ゲーム『取調室の小宮』を作り、無料で公開しました。堀井さんのXの投稿によると、制作にかかった時間は30分ほど。かつて『ポートピア連続殺人事件』を、物語を考え、絵を描き、プログラムを書いてひとりで作ったことを振り返りながら、今はAIに指示するだけで、ひとりでもゲームを作れることに驚いたという内容です。
この投稿には、AIの可能性に驚く声が寄せられた一方で、否定的な反応も目立ちました。「著作権や学習データは大丈夫なのか」「堀井雄二さんともあろう人が、なぜ安易に使うのか」「ドラクエではAIを使ってほしくない」といった意見です。ここで紹介しているのは、検索して目についた一部の反応であり、Xを利用する人全体の総意ではありません。
それでも、この反応にはAIをめぐる今の空気がよく表れているように思います。

「堀井さんにAIを使ってほしくない」はどこから来るのか
「著名なクリエイターだからAIを使ってほしくない」「使うとしても、もっと慎重にしてほしい」という気持ちは、単なる技術論だけでは説明できません。
堀井さんを長く見てきた人にとって、作品の裏側にある人間の仕事も含めて、ひとつの物語になっているのだと思います。自分で物語を考え、絵を描き、プログラムを書いたという『ポートピア連続殺人事件』の話は、堀井雄二という作り手の原点として語られてきました。そのイメージに、AIという新しい道具が入ってくる。そこで、これまで信じていた創作の物語が壊れるように感じる人がいても不思議ではありません。
「堀井雄二ともあろう人が」という言葉には、期待の裏返しもあります。誰でもいいからAIを使うなと言っているのではなく、あなたにはそうしてほしくなかった、という失望です。好きな作り手には、自分が理想とする姿でいてほしい。そういう気持ちは理解できます。
ただ、その期待を理由に、本人が選ぶ道具まで周囲が決めてよいのかという問題は残ります。ファンが抱く作家像は、作り手本人の人生そのものではありません。堀井さんがAIを使ったことをどう評価するかは自由ですが、使うこと自体を許さない権利がファンにあるわけではないでしょう。
AIアレルギーという病気
ここで、少し強い言葉を使います。「AI」という文字を見ただけで、作品や作り手を拒絶してしまう状態を、僕は「AIアレルギーという病気」と呼びたくなります。
もちろん、本当の病気だと言いたいわけではありません。あくまで比喩です。AIに対するすべての反対意見を、考えなしの拒絶として片づけたいわけでもありません。学習データや出力の権利、素材の利用許諾、仕事への影響について、具体的な懸念を抱くのは自然です。
僕が違和感を持つのは、そうした具体的な問題を確認する前に、「AIを使った」というだけで悪と決めてしまう反応です。出力を見ず、利用方法も調べず、作品にどんな価値があるかも考えずに、AIという言葉だけでシャットアウトする。そこには、アレルギーに似た反射的な拒否があるように見えます。
強い拒否感が生まれる背景には、AIが人の仕事を奪うかもしれない不安や、これまで積み上げてきた技能の価値が下がる恐れもあるのでしょう。だから感情そのものを笑うつもりはありません。ただ、感情があることと、その感情だけで他人の制作を断罪できることは別です。
まず確認すべきは、権利と使い方の具体的な問題
僕がAI利用でまず確認したいのは権利の問題です。使った素材に許諾があるのか。学習や生成の仕組みにどんな条件があるのか。出力が特定の作品や作家の表現に近すぎないか。公開や販売をしてよい契約になっているのか。ここは曖昧にしてはいけません。
ただし、「問題は権利だけ」と言い切ってしまうと、それも少し雑になります。品質を誰が担保するのか。作者としてどこまで説明責任を負うのか。AIの導入で誰の仕事がどう変わるのか。利用者にAIの使用を伝えるべき場面はあるのか。権利とは別に考えるべき論点もあります。
問うべきなのは、AIを使ったという事実そのものではありません。具体的な問題をひとつずつ確認することです。法的に問題がないなら何でも許される、という意味ではありません。一方で、AIを使ったというだけで違法だとか、作品に価値がないと決めるのも正確ではありません。
人間だって、誰かの作品を見て影響を受け、記憶や経験を組み合わせて新しいものを作ります。AIも大量のデータからパターンを学び、指示に応じて組み立てます。両者は同じではありません。人間には身体を持った経験があり、影響を受けた対象を自分の中で咀嚼し、何を残して何を捨てるかを選びます。AIの学習は、扱うデータの量や規模が大きく、仕組みも見えにくい。出力が特定の作品に似てしまう危険もあります。
だから、「人間も真似をするのだからAIも同じだ」と単純化するつもりはありません。違いはあります。ただ、その違いを考えることと、AIを使ったものをすべて盗作と呼ぶことの間には、大きな距離があります。
「ズルい」「チート」という感情
AIを使うことに、ズルさやチートのような感覚を持つ人がいるのも分かります。
これまでの創作では、絵を描く、コードを書く、文章を練るといった技能を身につけることが、作り手になるための入り口でした。そこをAIが短時間で補ってしまう。長い時間をかけて技能を磨いてきた人ほど、「自分たちが通ってきた道を飛ばしている」と感じるかもしれません。
僕自身も、AIを使っていると少し気持ち悪くなることがあります。自分の手で積み上げていないものが、目の前に形になって出てくる。その感覚に、戸惑いがないと言えば嘘になります。
でも、その気持ち悪さを理由にしても、AIの流れは止まりません。変わった世界で自分がどう作り、どう生きていくかに目を向けるしかない。感情は自分の判断材料にはできますが、他人を縛るための論理にはなりません。
使えるものは、どんどん使えばいい
僕は、権利や契約を確認し、使い方に責任を持てるなら、AIはどんどん使えばいいと思っています。
特に個人開発では、実装にかかる体力や時間が大きな制約になります。アイデアを試すためのプロトタイプを作る。画面を動かして、遊び心地を確かめる。これまで技術的な壁で諦めていたことに手を伸ばす。AIはそのための強力な道具になります。
著名なクリエイターが使うと、影響が大きいから慎重であるべきだという意見もあります。それは一理あります。大きな作品で使うなら、権利処理や品質管理、説明の仕方にはより大きな責任が伴うでしょう。
ただ、「有名だから使ってはいけない」という話になると、違和感があります。ファンが離れるかもしれない。批判されるかもしれない。それも含めて、最終的には作り手が引き受けて選ぶことです。声の大きい人の意見が、いつの間にかユーザー全体の総意に見えてしまうこともあります。すべての反応に振り回される必要はありません。
もちろん、健全な反対意見まで無視すればいいという意味ではありません。具体的な権利侵害の指摘や、作品をより良くするための批判があるなら、真摯に受け止めるべきです。破壊行為や妨害行為、個人への攻撃にまで及ぶ必要はありません。反対するなら、作品と論点に向き合えばいい。
作品に残るものを見たい
作品を体験するとき、僕が気にするのは、それが心に残るかどうかです。作り手の愛情が感じられるか。遊んだ時間に、体験する価値があったと思えるか。自分の中に何かが残るか。
どんな道具を使ったのかは、その次の話だと思っています。もちろん、道具は作品の内容や制作環境を変えます。この道具を使えば自動的に良い作品ができるわけでもないし、使わなければ自動的に誠実な作品になるわけでもありません。
使われた道具だけを理由に、作品の価値をゼロにする必要はない。反対に、AIを使ったから新しいというだけで、作品を持ち上げる必要もない。最後は作品そのものと、そこに込められた選択を見るべきです。
『取調室の小宮』がどこまで堀井さん自身の発想で、どこからAIの提案なのか。実際にどのような指示を出し、どこを直し、何を採用しなかったのか。そういう制作の中身を知る方が、「AIを使った」という一言だけで判断するより、ずっと本質に近づける気がします。
AI任せは、いずれ均質化に向かう
この道具なら、粗いものでも短時間で形になります。これから似たような作品が大量に出てくることは避けられないでしょう。まずは一度、ある程度の膿を出し切るような時期を通るのだと思います。
その後で、どこまでAIに任せ、どこから人間が決めるのかというバランスを考えることになるはずです。AIに任せきれば、平均的で、既視感のあるものに寄っていきます。大量の例から、もっともそれらしい答えを出す道具だからです。
歪んだもの、説明しにくいもの、少し間違っているけれど忘れられないものを作りたいなら、平均の外に出なければいけない。そこで必要になるのは、作り手の偏りや執着です。問われるのは利用の有無よりも、AIの出した「それらしい答え」をそのまま採用せず、自分の感覚で選び直せるかどうかです。
AIは創作そのものを終わらせません。作り方を変える道具です。変化の初期には、粗さも混乱も出てくる。そこから権利や仕事の問題を整理し、使い方を学び、作品を見る目を更新していけばいい。
堀井さんの投稿をきっかけに、AIを使う人と使わない人が互いを攻撃する必要はありません。「使ってほしくない」と感じる気持ちも、「使って何が悪い」と思う気持ちも、まずは自分の中にあるものとして扱えばいい。そのうえで、作品に何が残ったのか、誰かを不当に傷つけていないか、次に何を作るのかを考えたいと思います。